無駄にころされる

好きなモノ、興味ある事、時間が出来たら更新という感じです。

アンソロジーおやつ

いつの時代もお菓子だとか、そういう文体での食べ物の需要というのは衰えないよね。

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そしてそうやって書いてる人が食べ物について書いてる文ってなんか、好き。読みやすいし、共感、とはちょっと違うか。ダイレクトに感動なりなんなりが伝わるからかと思っているけど、それは置いといて。

アンソロジー形式で各人のおやつエッセイが載ってる。宝玉混在といった感じではあるが、一つ一つの質は高い。おやつと聞いて私は甘めの所謂スイーツを思い浮かべるが、甘いものが苦手で、あんこなぞ口にしたくもないといった作家もいたりするんで少し驚く。おやつ、というよりも甘味自体を好まないといってる作家もいるんで、どういうことだ?と思ったが、人それぞれおやつという認識は違うんだろうな、と納得させた。

アンソロジー自体は結構最近だった気がするが、内容自体は作家の思いで話が多いため、少し古め印象。戦後の話が多かったかな。長くとも数ページ程度のエッセイものなんで、熱中してみるには長さは足りない。集中してたくさんの作品が読める。ただ、おやつが主体というよりも、作家ごとの重いテーマがのしかかっていて、純粋におやつのかわいらしい描写を求めて読まないほうがいい。今とは違い、甘味が貴重とされた時代のことが多い。菓子の批評云々よりもやはり作家の趣味嗜好が強めに出てしまっているのが、なんだか、少しウっとなりながら読んだ。中でも特に重苦しく感じ、しかし、だからこそ美しかったのは最後の尾辻さんのチョコボールという作品だ。

簡単に言えば、チョコボールを盗んで胃が痛む話だが、犯罪というよりはそれをしてもなお生活は豊かになることはなく、逆に作者の胃を痛めつける結果になってしまう事態がおやつのネガティブキャンペーンな感じで読後は自身も痛めつけられたように感じる。最後の一文の恐ろしさにチョコボールのドロドロした甘すぎる味が文の中から香るようだ。そして読み終えて私は、菓子とは甘さの塊であり、毒にしかならなかった結末に愕然とするしかないのだ。

最初はあんなに愛らしく思えた菓子類は、書き手によって様々な面を覗かす。やはり食べ物系のエッセイはおもしろいな、と思った。影響されて白玉でも作ろうとしたが、白玉粉なんてあるわけがないんで、片栗粉でみたらしを作ったら食えたものではなく、半分ほどで捨てた。私は飽食の生んだくそ野郎である。

イラストはなんかちっさくなってしまった。この表紙はついつい手に取ってしまう。デザインとは余白にある。なんかの本で読んだ気がする。

 

 

何も考えない時間が欲しい

最近、というよりも昨日ぐらいから民謡にハマっています。ハマっているっていうのもおこがましいぐらいなんですけど、適切だと思うんで。はぎれのいい曲に弱い。アイルランドの民謡にはなんかジョニーって人がよくでるけど、これって私の検索の仕方の癖?日本でいう鈴木程度の認識なのか?私の身近に鈴木さんはいないが。後、ポルカ。この曲の和訳は知らなかったが、別に知らなくてもいい程度の歌詞なんで興味を持った方だけどうぞ。巻き舌と、裏取りの男のけだるげな合いの手と、ップって終わるところがかっこよくて素晴らしい。ああいう感じの曲がたくさん聞きたい。しかしどの分野なのかわからない。足踏みするだけしてそこからどう行動していいのかわからない。気に入った曲に似た曲を見つけるのは、難しいなぁ。明日はハローワークに行って、いろいろ話を伺ってきます。四日外に出なかったけど、そろそろ出ないとな。それと昨日はかぼちゃプリンを作った。皮の触感がよくておいしかったです。

 

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インドアだから

 もしかしたら文がなんか真ん中によっているかもしれないけど、原因が思いつかないので先に謝っておきます。ごめーんね。

今日は仕事を辞めて新生活二日目だけど早々仕事を決めてないし、本をだらだら読みすごした。パースがどうたら、アンソロの本がどうたら。読み終えはできてないから明日には読んでおこうと思う。

おでんの具は卵とこんにゃくとちくわと手羽元で完成するよね。んで、塩辛いものと甘いものを交互に食べるのはいいよね。ただ小麦粉と砂糖と卵、牛乳でホットケーキ作ったけどクニャクニャしてなんともあいまいな味。お母さんはなんででもおいしい味にしてたけど、私じゃ無理なんだろうか。しょうがないからホットケーキミックスを買うしかないのかもしれない。なんでかなぁ、わかんないなぁ。

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変化のない、空間

なんとはなしにしっかり働くことに飽きたんで、8月31日に仕事を辞めた。

いや、飽きるというのは少し語弊があるか。私はしっくりこない時間を過ごすことに意義を見出せなくなったのだ。社会人とはなんなんだろう、考えることは好きだが、口にすることは苦手である。文書上でも薄々見え隠れしているが、なんとか形にしたいものだ。

カタっ苦しい文体が好きなんでこのように書くが、見辛かったら申し訳ない。フラットに書きたくなったらそう書こうと思う。

話を戻して、仕事を辞め、私は改めて一人暮らしをするようになった。今までは寮で暮らしていたから、一応は一人暮らしだったがようやく本格的になったというわけだ。

母が引っ越す際に必要なことを一緒にしてくれて、今日からスタートということだ。

ブログは学生の頃にがんばってはみたが、長続きはしなかった。そして、働いている間は活字に深く関われなかった。忙しい、というよりすり減っていく心が文字を楽しまなくなったからだろうか。わからない、文にすることは苦手だ。感情を持つことはもっと苦手だ。それが仕事によるものなのか、先天的なのか、それを知りたいから仕事を辞めたのかもしれない。

図書館で借りたかった本を物色しつつ探すのは楽しい。一人暮らしを決めた場所には大きな図書館があるのでうれしい。永沢まことのスケッチ本が、おもしろく借りる気はなかったが借りた。面ではなく、線に注目した内容である。立体をとらえることにばかり注目していたが、また違った見方ができそうでうれしい。ただ、どの本でもそうだが、旅先で人をスケッチする際に水彩の道具を持って観察していたらすぐばれるんじゃないのか?色をつけるまで描く本は多いが色までバレずにスケッチをする方法も教えてほしいものだ。

とまあ、このブログはいわばリハビリと呼ぶべきか。なんだか、なにも感じなくなってしまったんで、日々起きたこと、感じたことを記していこうと思う。とくに漫画やらなんやらのことを考える時間が膨大だったせいかいまいちリアリティを見いだせれず、物事の全てがスクリーンの向こう側に見えてしまう、この現状を打破したい。何も知らなかった子供ほどに戻りたいわけではないが、今一度、脳の奥底まで駆け巡るような快楽を手にしたい。本を読み漁るのでその感想も書けるときに記そうと思う。

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後最後に落書きを描いていきます。マウス絵は今日だけね。